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マリーアントワネットの名言と格言集|マリーアントワネットの生い立ちと性格

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マリーアントワネットを知っていますか?14歳の若さでフランスの国王と政略結婚をした彼女は、悲しい運命をたどることになります。悪女のイメージがつきまといますが、実際はどんな人でしょうか?彼女が残した名言・格言を中心に生涯を追ってみます。

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マリーアントワネットを知っていますか?

マリーアントワネットの名前を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか? フランスの王妃でフランス革命の時に刑死しました。マリーアントワネットの死後、悪い噂やデマが広がり実像が間違えて広がりました。 実際はどんな人物だったのでしょうか?マリーアントワネットの人間性がうかがえる、名言や格言を集め、どのような人物だったのか紐解いていきます。数々の名言や格言を中心に、人物像や生涯をご紹介します。

マリーアントワネットはどんな人だった?

マリーアントワネットはどんな人だった?

1755年11月2日、ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの11女としてウィーンで生まれました。イタリア語やダンス、ハープグラヴサンなどの演奏を得意としました。 3才年上の姉、マリア・カロリーナが嫁ぐまで同じ部屋で生活をし、大変仲のいい姉妹でした。オーストリア宮廷はとても家庭的で、幼いころから家族揃って狩りに出かけたり、バレエやオペラの鑑賞に行っていました。 当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスの同盟関係を深めようとしていました。その事があり、母のマリアは娘とフランスの国王ルイ15世の孫と政略結婚をさせようと画策していました。 1765年にルイ・フェルディナンが死去すると、1769年ルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られてきました。その翌年、マリア・アントーニアが14才の時ルイと結婚することになります。盛大に行われた結婚式でアントーニアは、フランス王太子妃マリーアントワネットと呼ばれることになります。

マリーアントワネットとルイ16世

マリーアントワネットとルイとの夫婦中は大変良かったと言われています。パリのオペラ座では仮面舞踏会を遊び、賭博にも熱中しました。浪費家の印象を強くする行動が目立ちますが、自らの為に城を建築する事もなく、宮廷内で貧困にある者たちへのカンパを募ったりする一面もありました。 そして、結婚後しばらくは子供に恵まれず、7年目にようやく待望の子供マリーテレーズ・シャルロットが誕生します。この頃になると、熱中していた賭博もピッタリと止め、無人だったプチ・トリアノン宮殿で、家畜用の庭を増設して子供を育てながら家畜を眺める、のんびりとした生活を送りました。

王妃としての振る舞い

1774年ルイ16世の即位により、マリーアントワネットは王妃になります。すると、マリーアントワネットは朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開し、王妃に直接物を渡してはいけない決まり事など、ベルサイユ宮殿の習慣や儀式を廃止したり緩和させたりしました。 しかし、廷人の地位によって便器の形が決められていたりする、一種のステータスも廃止になり、逆に反感を買いました。そんな中、マリーアントワネットはスウェーデンの貴族と浮名を流し、宮廷ではこの噂でもちきりになり、地味な人物であるルイ16世を見下している所もありました。 当時、他の貴族と浮名を流すことは珍しい事ではなく、他の貴族にもその傾向がありました。べルサイユ以外の場所ではマリーアントワネットの中傷がひどく、特にパリでは多くの噂話がされていました。 1785年マリーアントワネットの名前を騙った詐欺集団による首飾り事件が起こります。革命前夜にフランスでおこり、金塊1トンにもなる首飾りを王室ご用達の宝石商からロアン枢機卿に買わせ、マリーアントワネットに渡すと偽りだまし取る事件が起こります。このように彼女に関する騒動は絶えませんでした。

運命を変えたフランス革命

1789年フランスでは、王政に対する民衆の不満が爆発し革命が勃発します。これが有名なフランス革命です。革命が起こると、これまでマリーアントワネットから恩恵を受けていた貴族たちは、彼女を見捨て国外に亡命します。 マリーアントワネットに最後まで誠実だったのは、王妹エリザベートとランバル公妃だけでした。マリーアントワネットは、フェルセンの力を借りてフランスを脱走してオーストリアにいる兄に助けを求めようと計画します。 1791年計画は実行され、国王一族は庶民に変装をしてパリを脱出します。この時、フェルセンは疑惑をそらす為、国王とマリーアントワネットは別行動を勧めますが、彼女は家族全員が乗れる豪華なベルリン馬車に乗ることを主張。多くの荷物を詰め込み、元々足の遅い馬車の速度をより遅らせ逃亡計画は失敗に終わります。

革命裁判

1792年フランス革命戦争が勃発すると、マリーアントワネットがフランス軍に作戦を漏らしているとの噂がたちます。パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃しマリーアントワネットやルイ16世などタンプル塔に幽閉されます。 幽閉と言っても、家族でチェスを楽しんだり活気を演奏したり、子供の勉強を教えたり家族団らんの時を楽しんでいました。1793年になると、革命裁判はルイ16世の死刑判決を下し、ギロチンによる斬首刑が決定。続いてマリーアントワネットの裁判が行われますが、マリーはほぼ無罪を主張します。裁判は難航し業を煮やした裁判官は、ルイ17世などの非公開尋問を行い「母親に性的行為を強要された」と、無理やり近親相姦を犯した旨を証言させました。 そして、マリーアントワネットは裁判の傍聴席にいた全ての女性たちに無実を主張し大きな共感を生みました。しかし、マリーアントワネットは死刑判決を受け、ギロチンによる斬首刑が決定します。

マリーアントワネット最後の日

処刑の前日、マリーアントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛に遺書を書き残しています。「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送れらるなら恥ずべきものではない」と、名言・格言とも言える言葉です。 処刑当日、朝食について聞かれると「何もいりません。全て終わりました」と述べ、白衣に白い帽子を身につけました。髪を短く切られ、後ろ手に縛られ肥桶の荷車でギロチン台へと向かいました。 死刑執行人シャルル・アンリ・サンゾンの足を踏んでしまった時「お赦しくださいねムッシュウ。わざとではありませんのよ。」と言いました。この言葉は今でも名言・格言として受け継がれています。そして、最後の言葉は、「さよなら、子供たち。あなた方のお父さんのところに行きます。」でした。享年37才。12時15分に刑が執行されると見ていた群衆からは「共産国万歳」と叫び続けました。 マリーアントワネット最後の日、今でも心に響く多くの名言・格言が残されました。

マリーアントワネットは性格に問題あり?

マリーアントワネットの名誉回復には死後30年以上を要しました。彼女に対する悪評は、ほとんどが中傷やデマばかりでした。マリーアントワネットに対しての国民の怒りは、フランス革命が始まってからの方が大きかったようです。

マリーアントワネット数々の名言

名言・格言その1

一番有名な格言・名言「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」これは、マリーアントワネットの格言・名言として伝えられていますが、実際はルソーが言った言葉です。当時の「告白」に記されており、その説が有力だと言われています。

名言・格言その2

「あらゆる浪費の中で、最も咎むべきは時間の浪費である。」 これも有名な格言・名言です。時間を無駄にせずその時を大切に生きていたマリーアントワネットの気持ちが感じられる名言・格言です。

名言・格言その3

「不幸な暮らしをしながら私たちに尽くしてくれる人々を見たならば、彼らの幸せのためにこれまで以上に身を粉にして働くのが私のつとめだというのは当然のことです。」 マリーアントワネットが実家の母に宛てた手紙の中の一文です。国の事を理解されていたと感じる名言・格言です。

名言・格言その4

「何もいりません。全て終わりました。」 処刑される日の朝食について聞かれた時に言った一言。贅沢三昧しているとは思えない事を感じさせる名言・格言です。

名言・格言その5

「ごめんなさい、わざとではありません。」 この名言・格言は、死刑執行の時に行った名言・格言で、この言葉の後に「靴が汚れなくて良かったわ」と言ったとも。傲慢なイメージとは全く違う、極限の状態でも人を思いやれる名言・格言です。

名言・格言その6

「女心は、どんなに悲しみで一杯になっても、お世辞や恋を受け入れる片隅がどこかに残っているものだ。」 マリーアントワネットは恋愛に対しての名言・格言を多く残しています。自分自身に自信を持って自然体で生きていた彼女ならではの名言・格言です。

悲劇のヒロインマリーアントワネット

マリーアントワネットの特集はいかがでしたか。彼女の名前を聞くと悪いイメージが思い出されていた人も、今回の特集で人間性がわかりましたね。名言・格言を読むと、人柄が伝わってきて、慈悲深い女性だったのではないかと思われます。 恋愛に対しても生きる事に対しても前向きなマリーアントワネットの名言・格言を参考にしてみて下さい。

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