IT人材のためのキャリアライフスタイルマガジン

本田宗一郎の名言と格言集・本田宗一郎の生い立ちと性格

初回公開日:2017年09月30日

更新日:2020年06月15日

記載されている内容は2017年09月30日時点のものです。現在の情報と異なる可能性がありますので、ご了承ください。

また、記事に記載されている情報は自己責任でご活用いただき、本記事の内容に関する事項については、専門家等に相談するようにしてください。

マネジメント

本田宗一郎を知っていますか。ロボットのアシモやジェット機までも造る自動車メーカーホンダの創業者です。出世城のある浜松から世界へと大きく羽ばたいていったホンダを創り上げた宗一郎の生い立ちと性格、そして様々な場面で残した数々の名言・格言を詳しく紹介しています。

本田宗一郎の名言と格言集・本田宗一郎の生い立ちと性格

本田宗一郎は、自動車メーカーホンダ(本田技研工業)の創業者です。類まれな技術者であり、戦後まもなく補助エンジン付き二輪車の製造を始め、その後自動車製造へと参入していきました。今や、ロボットのアシモからジェット機までも造る巨大企業、世界のホンダを築き上げた人です。 本田宗一郎は、非常に個性豊かで、そして魅力的な人であり、多くの人の心を引き付けてきました。宗一郎は様々な場所と場面で、数々の名言・格言を残してもいます。宗一郎の死後から随分経った現在でも、宗一郎が残した数々のエピソードは多くの人たちによって語られ、人々を魅了し続けています。 そうした本田宗一郎の生い立ちと性格、そして宗一郎の残した名言と格言についてみていくことにしましょう。

本田宗一郎の生い立ち

鍛冶屋の長男として生まれる

本田宗一郎は1906年(明治39年)11月17日、静岡県磐田郡光明村(現在の浜松市天竜区)に鍛冶屋の長男として生まれました。父は本田儀平、母はみかです。儀平は腕のいい鍛冶職人で、みかは機織りの名手でした。宗一郎は、2人の優れた職人の血を受け継いで誕生しました。 家庭は裕福ではありませんでしたが、のびのびと育てられました。一方、しつけは厳しかったといいます。宗一郎が、他人に迷惑を掛けることを嫌ったことや、約束の時間を厳守したことなど、彼の真面目さや几帳面さは、父親の厳しい教えにより形作られたといいます。 父親の儀平は、鍛冶屋の傍ら、自転車販売店を開業しました。自転車の修理を依頼されたことがきっかけでしたが、儀平は持ち前の職人能力と研究熱心さを生かして、中古自転車の修理、販売に乗り出しました。そして、近所でも評判の自転車販売店になっていきました。

東京の自動車修理工場へ丁稚奉公へ

本田宗一郎と自動車の初めての出会いは、通っていた尋常小学校でした。村に初めて現れた自動車に宗一郎は感激し、「その時かいだオイルのにおいを今も忘れない」とその後何度も語っていたといいます。この頃、宗一郎は曲技飛行士アート・スミスの曲芸飛行を見学して、その時初めて飛行機も目にしています。 1919年(大正8年)から、宗一郎は高等小学校に通いましたが、卒業が間近いころ、自転車業界誌『輪業の世界』で、東京の「アート商会」(現アート金属工業)の広告を目にしました。そこには自転車ではなく、自動車やオートバイの製作修理の広告がありました。 1922年(大正11年)4月、宗一郎は高等小学校を卒業すると同時に、東京市本郷区湯島(現在の東京都文京区湯島)の自動車修理工場アート商会に丁稚奉公に入りました。しかし、実際の仕事は、主人(社長)の子供の子守りというものでした。

主人・榊原氏から多くを学ぶ

本田宗一郎は、アート商会には丁稚小僧として入り、はじめのうちは自動車修理の仕事に関われませんでした。しかし、宗一郎の非凡な才能は主人の榊原郁三氏によってすぐに見抜かれました。宗一郎の熱心な仕事ぶり、臨機応変さ、創意工夫と勘の良さなど、榊原氏はそれらを認め、宗一郎を目に掛けるようになりました。一方、宗一郎も榊原氏から多くを学んでいきました。 自動車の修理はもちろん、顧客への接し方やエンジニアとしての在り方など、宗一郎は榊原氏からいろいろと学んだといいます。宗一郎をモータースポーツの世界に引き込んだのも榊原氏でした。 1923年(大正12年)、榊原氏は弟の真一氏と宗一郎たちとともに、レーシングカーの製作を始め、その翌年の第5回日本自動車競争大会に、真一氏が操縦士、宗一郎が同乗機関士として初出場しました。そして、見事優勝を果たしました。本田宗一郎のモータースポーツへの情熱のルーツがそこにありました。

のれん分けで浜松に支店を設立

1928年4月、21歳で丁稚奉公を終えた本田宗一郎は、故郷の浜松に戻り、アート商会浜松支店を設立しました。それはのれん分けの形で行われたものですが、それを主人から許されたのは宗一郎ただ1人でした。 宗一郎は、浜松でその才能をいかんなく発揮します。修理の腕の良さはもちろんですが、その発明家ぶりもすごいものでした。強力な放水ポンプをつけた消防特装車、ダンプトラック、乗客を増やすためのバスの改造など、次々と独創的な自動車を製作していきました。 1935年、宗一郎は小学校教員であったさちと結婚しますが、そのころには支店の従業員が、当初の1人から30人にまで増え、事業は順調に拡大していきました。

ピストンリング製造への進出と終戦

1936年(昭和11年)、本田宗一郎は修理業に飽き足らず、製造業への進出を目指します。エンジンのピストンリング製造を始めようと、知人の加藤七郎氏を社長として東海精機重工業(現東海精機)を設立しました。宗一郎は、昼間はこれまで通り働きながら、夜間にピストンリングの開発に全力を注ぎました。 翌1939年(昭和14年)、宗一郎はピストンリングの試作品を完成し、アート商会を弟子に譲って、東海精機重工業の社長に就任しました。当初、製造技術に苦労をして、ピストンリングの量産に成功するまでには2年近くを要しましたが、トヨタや中島飛行機に納入できるようにまでなりました。従業員は、最盛期には2000人に達しました。 しかし、1941年、太平洋戦争に突入し、東海精機重工業の工場が空爆と三河地震により破壊されてしまいました。結局、宗一郎は会社の株を豊田自動織機に売却し、終戦後に1年間の「人間休業」に入りました。

本田技研工業の設立

本田宗一郎は1946年(昭和21年)10月、浜松に本田技術研究所を設立し、再び動き始めました。1948年(昭和23年)には、同地に本田技研工業を設立し、代表取締役に就任しました。資本金100万円、従業員20人で、二輪車研究を始め、すぐに自転車用補助エンジンの製造に乗り出しました。 1949年8月、本田技研は本格的二輪車ドリームD型を世に送り出しました。同月、宗一郎は経営の才に長けた藤沢武夫氏と出会い、意気投合して、10月には彼を常務取締役として迎え入れました。その後、藤沢氏は副社長となり、この2人で本田技研工業(ホンダ)を世界的な企業へと成長させていきました。

関連タグ

アクセスランキング