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【時代別】行われた逆さ磔のやり方|江戸時代/戦国時代/岩村城

更新日:2024年11月20日

雑学・歴史

みなさんは逆さ磔という言葉を聞いたことがありますか。その名の通り、逆さまの状態で磔にされるという武家時代の恐ろしい刑罰です。この記事では、逆さ磔の歴史とともに、そのような残虐な刑の犠牲となった人々についてご紹介します。ぜひご一読ください。

迫害され続けたキリシタンの逆さ磔は見せしめだった?

江戸時代に入ると、キリスト教への弾圧が強まっていきます。慶長17年(1612年)の禁教令を境にキリシタン大名が一掃され、元和5年(1619年)には迫害は一般の信徒にも及ぶようになります。各地で多くのキリシタンたちが捕らえられ、処刑されていきました。 その後、処刑は徐々に棄教を目的としたものに変わっていきます。拷問し、強制的に改宗させることで、仲間のキリシタンたちの動揺をねらったためです。そのため、苦痛を長く与える逆さ磔もキリシタンへの処刑方法として使われました。残酷な処刑を公開して、隠れキリシタンたちへ棄教をうながす意味合いもあったとされています。

明治維新後も逆さ磔は存在した?

磔刑が完全に禁止されたのは、明治時代に入ってからのことです。明治の新時代を迎えてなお、逆さ磔で処刑された人物が、最後にご紹介する市川三左衛門です。旧幕軍として官軍と戦い続けた市川を、時代を追って見てみましょう。

尊王攘夷派・天狗党と保守派・諸生党の争いを学ぼう

市川は文化13年(1816年)、水戸藩(現在の茨城県)に生まれました。ペリーの来航などで幕府が揺れていた時代、水戸藩主・斉昭は尊王攘夷の思想を唱えます。天皇を尊び、諸外国を排する考えですが、幕府は開国を決断し、安政の大獄と呼ばれる尊攘派への一斉処分を下します。斉昭も幕府内で失脚してしまいます。 これをきっかけに、水戸藩内は天狗党と呼ばれる尊攘派が過激化していくことになります。桜田門外の変や第1次東禅寺事件、坂下門外の変など、天狗党に所属していた元藩士が起こした事件も、世を騒がせていきます。 そして、元治元年(1864年)ついに天狗党が筑波山で挙兵します。幕府に攘夷を迫るためですが、各地で略奪や殺人などの暴力行為を働いたため、暴徒集団として恐れられました。 同じ頃、水戸藩内で市川を中心に、天狗党に対抗する組織として諸生党が結成されます。ここから諸生党の天狗党討伐が始まります。

市川の逆さ磔は天狗党の報復だった

諸生党は幕府軍と共に天狗党を相手に戦いますが、勢いに勝てず敗走してしまいます。そこで諸生党が行ったのが、天狗党員の家族に対する処罰でした。動揺した天狗党は敗北し、その後は市川によって天狗党に関わった人間はことごとく処刑されてしまいます。 しかし、時代は大きく変わり、明治維新によって幕府は終わりを迎えます。水戸藩では、天狗党の残党による諸生党への復讐が始まります。市川は各地で新政府軍と戦いますが、敗走して江戸に潜伏していたところで捕まえられます。こうして明治2年(1869年)、市川は水戸の長岡原で逆さ磔の極刑に処されました。 現在、茨城県水戸市の祇園寺には市川の墓と諸生党士の慰霊碑が建立されています。

かつての刑罰逆さ磔の歴史を忘れずに

さて、今回は戦国時代から明治初頭まで行われていた逆さ磔についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。 明治時代になり、新政府により新たな刑法が執行され、かつての残忍な処刑方法は徐々に姿を消し、現在では受刑者の人権も守られるようになっています。ですが、かつて逆さ磔のような恐ろしい刑罰があったこと、その刑罰によって多くの人が命を落としていったことを、私たちは決して忘れてはいけません。

初回公開日:2018年01月11日

記載されている内容は2018年01月11日時点のものです。現在の情報と異なる可能性がありますので、ご了承ください。
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