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更新日:2024年11月20日
みなさんは逆さ磔という言葉を聞いたことがありますか。その名の通り、逆さまの状態で磔にされるという武家時代の恐ろしい刑罰です。この記事では、逆さ磔の歴史とともに、そのような残虐な刑の犠牲となった人々についてご紹介します。ぜひご一読ください。
目次
逆さ磔とは、戦国時代から明治初期にかけて行われていた刑罰です。逆さ磔にふれる前に、まず磔刑についてご説明します。イエス・キリストが十字架にかけられた姿を思い起こしてください。このように柱や板に受刑者の体を固定し、槍などで突いて処刑するのが基本的な磔の形です。 この磔刑を、頭を下に固定したものが逆さ磔です。逆さにすると脳に血液がたまって死に至るため、こめかみを切って頭部の血を流し、受刑者の苦しみがより長く続くようにしたとも言われています。 なぜ、このような残酷な刑が行われていたのでしょうか。磔刑も逆さ磔も公開処刑であり、受刑者が苦しむ様子を周囲に見せることで抑止力とするためです。特に逆さ磔は、戦国時代は裏切りを働いた武将に用いられ、時代が下るとキリシタンへの刑罰として知られるようになります。
では、日本で逆さ磔が行われた歴史をたどってみましょう。初期の逆さ磔で有名なのは、天正3年(1575年)に起こった長篠の戦いにおけるものです。この戦いの際、鳥居強右衛門という人物が逆さ磔にされたという説があります(ほかに通常の磔刑だったという説、切られたという説など、諸説あり)。 鳥居強右衛門はどのような罪を犯したのでしょうか。また、どのような状況で逆さ磔が行われたのでしょうか。詳しく見てみましょう。
天正3年5月、三河国(現在の愛知県)にある長篠城をめぐる合戦が、長篠の戦いです。甲斐の武将、武田信玄の上洛によって、武田軍と織田信長・徳川家康の連合軍は敵対関係にありました。 信玄の死により、武田軍は甲斐へと撤退を始めますが、このときに武田軍を裏切って徳川方へ寝返ったのが、奥平貞昌(後の信昌)です。貞昌は家康により長篠城を任されますが、信玄の後を継いだ勝頼が1万数千の大軍を率いて長篠城を囲みます。 貞昌の状況は絶望的と思われましたが、織田・徳川軍が救援に駆けつけます。ここで、戦国最強と言われた武田騎馬隊を信長の鉄砲隊が破り、信長は天下人への階段を上り始めます。一方、甲斐を中心に強い勢力を持っていた武田家は衰退し、天正10年(1582年)の信長の侵攻をもって終わりを迎えます。
この長篠の戦いで、長篠城が武田軍によって包囲されたとき、織田・徳川軍への救援要請の使者として選ばれたのが鳥居強右衛門です。貞昌の命を受けた強右衛門は深夜に城を抜け出し、川を泳いで渡って信長・家康に長篠城の危機を伝えました。 その後、援軍が来ることを伝えるため、強右衛門は再び長篠城へ引き返しますが、そこで武田軍の兵に見つかって捕らえられてしまいます。武田軍は強右衛門に対して、城へ援軍が来ないと伝えるように脅します。援軍が来ないという知らせを聞けば城内の士気が下がり、城を落とすことができるからです。 しかし、強右衛門は城に向かって「援軍はすぐ近くまで来ている、もう少しだ」と叫んだと言われています。このことにより長篠城はなんとか持ちこたえ、続いて到着した織田・徳川軍によって形勢は逆転しました。ですが、捕らえられていた強右衛門は、武田軍によって逆さ磔に処されました。
続いて歴史に登場する逆さ磔の犠牲者は、なんと女性です。先ほど取り上げた長篠の戦いと並行して、元亀3年(1572年)から天正3年まで武田軍と織田軍によって争われた岩村城が、次の逆さ磔の舞台となります。 この岩村城の戦いで逆さ磔となったのが、信長の叔母にあたる女性、おつやの方です(ほかに艶、岩村殿、お直の方などいくつかの呼称あり)。ここでは岩村城の戦いとともに、おつやの方の生涯を振り返ってみましょう。
美濃国(現在の岐阜県)に立つ岩村城は、もともと武田方である遠山家が治めていた城です。元亀3年に当時の城主である景任が病死すると、信長が城を乗っとります。景任の後に、自分の5男を養子として据えました。その養子が幼かったため、実質的な城主を務めたのが亡き景任の妻で、信長の叔母でもあったおつやの方でした。 しかし、ここで上洛を始めた信玄と衝突が起きます。岩村城は武田軍配下の秋山虎繁によって包囲され、おつやの方は虎繁との結婚を条件に武田軍に下ります。その後も武田軍と織田軍による幾度かの合戦を経て、先ほど述べた長篠の戦いが起こります。 優勢が決定的になった織田軍は岩村城へ侵攻し、虎繁も懸命に戦いましたが、結果はことごとく敗北となりました。最終的に虎繁の降伏によって岩村城は開城、虎繁を始めとする主だった武将が信長によって処刑され、戦いは幕を閉じました。
岩村城主・遠山景任に嫁いだおつやの方は、夫の死後、信長の子を養子に迎え、女城主として城を治めていた女性です。信長の叔母にあたり、非常に美しかったと言われています。しかし、武田軍に攻められると、秋山虎繁と婚姻、信長の子も人質として差し出してしまいます。 この裏切りに対する信長の怒りは凄まじいものでした。その後、長篠の戦いで圧勝した織田軍は岩村城を攻めます。虎繁やおつやの方は助命を条件に降伏しましたが、信長は2人を長良川に連行すると、他の武将と共に逆さ磔にしてしまいます。 おつやの方は「現在の叔母をかかる非道の処置をなすは、必ずや因果の報いを受けん」と嘆きましたが、以前の寝返りを許せなかった信長は、おつやの方を助けることはありませんでした。
これまでご紹介した逆さ磔は、どちらも悲劇の要素が色濃いものでしたが、現代の視点で見るとまったく割に合わない理由で逆さ磔が執行された例もあります。時代が変わって、豊臣秀吉の天下となった天正17年(1589年)のことです。 当時、秀吉は関白として聚楽第という豪勢な城郭にいたとされています。この聚楽第の表門に、秀吉を批判する落首が書かれたのが事件の発端です。 これに激怒した秀吉は、警備の任にあった17人の番衆の責任を問い詰め、全員を逆さ磔にして処刑してしまいました。1日目に鼻、2日目に耳をそぎ落とし、3日目に逆さ磔にしたということから、秀吉の怒りの深さが伝わってきます。 その後、主犯の首を手に入れたのですが、腹立ちの収まらない秀吉は、関わった町人60余名も磔にしたと言われています。落書きを見落としただけで逆さ磔にされるとは、現代の感覚からはただただ驚くばかりです。
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