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「働けど働けど」の歌の意味・石川啄木の心理状態や生活について

更新日:2024年08月15日

言葉の意味・例文

「働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざりぢっと手を見る」この歌の作者石川啄木は天才歌人とうたわれた人ですが、貧苦と不遇にさいなまれた人生でした。今回は啄木の代表作である「働けど働けど」の意味や、「働けど働けど」が生まれた背景などをご紹介していきます。

啄木の最期

石川啄木は「働けど働けど」など、貧苦と不遇の青春を短歌や詩にこめた作品が認められ、ようやく逆境から抜け出せるという矢先、肺結核に侵され26歳で夭折しました。 東京朝日新聞の校正係の職が決まった石川啄木は、北海道から家族を呼びよせ、校正や歌壇の選者を勤めながら創作を続けていました。 第2歌集「悲しき玩具(がんぐ)」は死後刊行されました。啄木の生涯は、貧しく不遇な青春にして漂泊の人生でした。

「一握の砂」のあらすじ

「働けど働けど」をふくむ「一握の砂」は、主題別に5章から構成されています。「我を愛するうた」、「煙」、「秋風のこころよさに」、「手套(てぶくろ)を脱ぐ時」、「忘れがたき人」の5章で成り立ち、編集されています。 ふるさと岩手への郷愁や、北海道生活の回想、ひっ迫した生活や鬱屈(うっくつ)とした心情を、たくみなリズムと親しみやすい言葉でつづり、若い世代を中心にヒットした名作です。

「一握の砂」から他の有名な歌

「一握の砂」には教科書などにも載っている有名な歌がたくさんあります。以下にその代表的な歌を表記します。 ・ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく  ・ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな ・石をもて 追はるがごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし 生活と郷愁がにじみ出た素晴らしい作品は、いつの時代も人々の心を打ち、共感を呼ぶ名作です。

石川啄木は家族に内緒にしておきたかったことをローマ字日記として書き残しています。石川啄木は有名な歌を数多く残した人気の歌人ですが、道楽の限りをつくした人物としても後世に名を轟かす人物です。 せきららに語られたそれらの体験集である日記を、死の床で処分するようにと妻に言い残した石川啄木ですが、その遺志は叶いませんでした。妻の手から金田一京助に渡り出版されたローマ字日記は、今も読む人に衝撃を与えています。

現代も「働けど働けど」に似た状況?

石川啄木の生きた明治の日本は、自らの利益を優先するブルジョアと、激烈な競争力に負けた人との格差が拡大した時代です。「働けど働けど」の状況は、石川啄木だけの問題ではありませんでした。 石川啄木の時代から100年以上たった現代、明治のころと同じように格差が広がり、「働けど働けど」生活が楽にならない状況に戻っています。リストラ、非正規労働者など悪化する雇用面においても、その現象が顕著に表れています。

格差社会

石川啄木の生きた明治時代の日本は、ヨーロッパに追いつき肩を並べようと、近代化に力を入れた結果、他人を搾取し、自分の利益さえ得られればかまわないという金銭欲に取りつかれた人間が増え、格差社会になりました。 明治時代の格差は現代まで続き、一億総中流という概念は幻想となり、勝ち組と失業者の見えない格差が、階級社会としての現代日本の問題点になりはじめています。

大変な時ほど文学に親しむゆとりをもとう

貧しさは自己責任だけではありません。「働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざりぢっと手を見る」という状況を生み出しているのは、現在の日本の社会構造にあることも間違いありません。 石川啄木は貧しさや不遇な運命にあっても、最期まで夢と希望を失わずに創作活動を続けました。その根底を支えたのが、文学を愛する心です。わたしたちも文学に親しみ、心にゆとりをもち、明日への活力を養いましょう。

無職や下積みの大変な時こそ夢をもとう

石川啄木の生きた明治時代は、賃金や勤務時間などの改善を図ることが課題でした。グローバルな現代は、もっと複雑で解決が難しくなっています。 職はあっても働けない、働いても働いても生活がらくにはならないなどの悩みを、具体的な夢へと転換する考えが必要です。無職や下積みで大変な今こそ、未来への展望を明らかにして、気持を切り替えて生きていきましょう。夢に向かって生きる姿勢こそが、もっともな解決方法です。

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初回公開日:2018年01月05日

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