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「働けど働けど」の歌の意味・石川啄木の心理状態や生活について

更新日:2024年08月15日

言葉の意味・例文

「働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざりぢっと手を見る」この歌の作者石川啄木は天才歌人とうたわれた人ですが、貧苦と不遇にさいなまれた人生でした。今回は啄木の代表作である「働けど働けど」の意味や、「働けど働けど」が生まれた背景などをご紹介していきます。

「働けど働けど」とは

「働けど働けど」の作品は、歌集「一握の砂」の中の1首です。歌の作者は天才歌人とうたわれた石川啄木です。 「一握の砂」は1910年(明治43年)12月1日に刊行されました。新聞や雑誌のメディアに発表した、「働けど働けど」の作を含む551首の短歌を編集した作品が載せられています。 タイトルには、時が刻々と過ぎて流れ移り変わっていくうちに、はかなく消える目立たない生という意味が込められています。

「働けど働けど」の全文

「働けど働けど」の全文は「働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざりぢっと手を見る」です。歌の意味は、どれほど働いても我が暮らしは楽にならず、少しも変わらない。我が手をじっと見つめるという、率直に生活苦を歌った素朴な心情を吐露した短歌です。 抒情性があり、作者の心情を思うと胸に迫るものがあります。

解説

「働けど働けど」をふくむ「一握の砂」は、主題別に5章から構成されています。一首を三行書きにした表記が特徴です。 「働けど働けど」は、短歌という文学形式で自らの感情をオブラートに包むことなくストレートに表現し、読む人に衝撃を与えています。厳しい生活の現実を直視した歌は、現在も多くの人に感動をもたらしています。

「働けど働けど」の歌ができた背景

「働けど働けど」の歌には、シビアな都会暮らしの悲喜こもごも、故郷渋民村や盛岡への追憶、小樽市や函館市などの北海道での生活など、石川啄木がつづった想いが載せられています。 「働けど働けど」の歌には、世間に認められたいという強い想いが、貧しい生活の中から出たわかりやすい言葉で、ごまかすことなく率直に語られています。

石川啄木の人生

26歳の若さで早世した石川啄木は、各地を転々とする、波乱万丈な流浪の人生を送りました。石川啄木はたぐいまれなる短歌の才能とともに、多額の借金や貧乏生活が有名な歌人です。 啄木は妻子を顧みずに遊びにお金を費やしながら、素晴らしい短歌の数々を世に送り出した複雑な運命の持ち主です。感情のままに歌を詠み、生きた、石川啄木の人生を振り返ってみましょう。

出生地・おいたち

「働けど働けど」の作者石川啄木、本名一(はじめ)は1886(明治19年)~1912(明治45年)、南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市)生まれです。 石川啄木は盛岡中学時代に友人の影響で文学に興味をもち、短歌や詩を発表し、才能に目覚めてゆきました。 中学を退学して、文学で身を起こそうと上京した石川啄木ですが、就職がうまくいかず、もともと体が弱かったため病にかかり、挫折して帰郷しています。

この俳句を詠んだ時の心境/暮らし

石川啄木が「働けど働けど」を詠んだ背景には、自らの貧しさと労働者階級の立場に立つ社会主義思想の影響がありました。石川啄木は21歳で故郷盛岡を去り、北海道へ渡ります。 そして、一家の大黒柱として教員や記者の職に就きながら、道内を点々と流浪します。啄木はもともと病弱なうえ、北海道という厳寒地の環境に苦しめられました。 「働けど働けど」は、自らの不遇と貧しさを、労働者階級の手と結びつけた画期的な短歌です。

啄木と交流のあった歌人

石川啄木は、与謝野鉄幹や与謝野晶子、宮崎郁雨らの歌人と深い交流がありました。後に啄木は与謝野鉄幹に認められ、東京新詩社の同門となりました。 彼の弟子として教えを受けて文壇にデビューをし、将来有望な天才新人歌人として注目されていました。また、鉄幹の妻の与謝野晶子とも交流がありました。 宮崎郁雨は石川啄木を物心両面から支えた親友の歌人で、啄木の妻の妹の夫です。

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初回公開日:2018年01月05日

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