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邪馬台国の女王卑弥呼と天皇家の関係・卑弥呼の時代の天皇は誰か

初回公開日:2017年11月16日

更新日:2017年11月16日

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自己啓発

卑弥呼は、古代日本にあった邪馬台国という国を統治した女王と言われています。しかし、卑弥呼や邪馬台国に関する事柄は謎に包まれており、卑弥呼は天皇家に関係のある人物ではないかなど、さまざまな憶測が飛び交っています。今回は、卑弥呼と邪馬台国に関する謎をご紹介します。

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謎多き邪馬台国の女王卑弥呼

「卑弥呼」は、古代日本にあったと言われる「邪馬台国」を統治していた女王として知られています。卑弥呼に関する事柄は多くの謎に包まれており、現在も研究が続けられています。 今回は、卑弥呼や邪馬台国にまつわるさまざまな謎をご紹介します。

邪馬台国の女王「卑弥呼」とは?

卑弥呼は、中国の三国志の中にある「魏志倭人伝」という当時の日本国(倭国)に関する事柄を書き示した書物の中に記述されています。魏志倭人伝によると、卑弥呼は3世紀前半頃、畿内もしくは九州に存在したとされる邪馬台国という国を統治していた女王と記述されています。 238年、卑弥呼は魏に使いを送って朝貢をし、これに対して魏の皇帝は、「親魏倭国王」の称号と金印、銅鏡を授けたという記述が残されています。さらに、247年に邪馬台国が狗奴国(くぬのくに)と交戦している際には、魏は詔書と黄幢を贈り励ましたという記述も残されており、卑弥呼は魏と積極的に外交を行っていた様子が魏志倭人伝に書かれています。 卑弥呼は「鬼道」と呼ばれる占いや呪術の一種を用いて政治を行い、卑弥呼の弟を通じて外部に伝えられたと言われています。卑弥呼は女王となった後は人前に姿を現さず、男子一人のみが身の回りの世話をするために出入りしていました。卑弥呼に夫はおらず、生涯独身であったと言われています。

邪馬台国はどのような国だったのか?

邪馬台国は、2〜3世紀頃にあったとされる国で、日本に点在する国の中の頂点に立つ大きな国であったと言われています。所在地については、畿内という説や九州にあったいう説など、いまだにはっきりとした結論は出ていません。 邪馬台国があった当時の日本は、男性の王が統治していました。しかし、内乱が長期にわたって続く中、諸国の共立によって邪馬台国の卑弥呼を女王とし、統治することで内乱は収束に至りました。卑弥呼の死後、男性の王が統治しますが再び内乱が起きて国内は混乱状態に陥りました。そこで、卑弥呼の宗女である壱与を女王としたことで、内乱は収束したと言われています。

天皇の起源は卑弥呼か

卑弥呼を女王とし、日本を統治した邪馬台国は、「ヤマト王権」の前身ではないかと言われています。「ヤマト王権」とは、有力な豪族が連合して成立した政治組織のことで、「王」「大王(おおきみ)」を中心とした政治形態をとっていました。 ヤマト王権は300年頃奈良盆地で起こり、400〜450年頃には全国に勢力を広げていったと考えられています。ヤマト王権で権力を持った豪族が、現在の天皇家の先祖だと言われています。 邪馬台国がヤマト王権の前身であったという説が正しければ、卑弥呼は天皇の起源に当たると考えられます。しかし、卑弥呼の死後(240〜249年の間と考えられている)から飛鳥時代(592年)の約400年の間は文献が残っておらず、歴史的に何が起こったのかはっきりわかっていません。 そのため、邪馬台国がヤマト王権の前身であったというのであれば、邪馬台国は畿内に存在していたことになり、空白の期間もずっと卑弥呼の一族が権力を握っていたということになります。しかし、ヤマト王権が邪馬台国を征服し実権を握った、という説もあり、現在も議論が続けられています。

卑弥呼の正体は誰なのか

卑弥呼という名前は、太陽の神に仕える権威ある女性を意味する「ヒメコ」「ヒメミコ」「ヒノミコ」という称号を中国語音表記したものであって、個人名ではないと言われています。 そのため、日本を統治するほどの権力を持っていたのにもかかわらず、古代の日本の様子を記述した「古事記」「日本書紀」には卑弥呼という表記は見られません。このことから、卑弥呼は日本では別の名前で呼ばれており、その正体は天皇家に関係のある人物ではないかという説があります。

卑弥呼の正体として有力な人物

卑弥呼は邪馬台国の女王でしたが、人前に出ることなく神殿の奥で暮らし神に祈りを捧げていたと言われています。その様子から、「古事記」「日本書紀」に登場する「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」が卑弥呼の正体ではないかと言われています。 また、日本書紀にある「神功皇后紀」に、魏に使者を送ったという記述が、魏志倭人伝に記載されている卑弥呼のエピソードと酷似していることから、卑弥呼は「神功皇后(じんぐうこうごう)」ではないかという説もあります。そのほか、「倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめのみこと)」が卑弥呼の正体ではないかと言われています。

邪馬台国の女王卑弥呼と天皇家の関係

卑弥呼は天皇家との関係は、卑弥呼の正体が誰なのかということによってさまざまな説があります。ここでは、卑弥呼の可能性が高い人物を魏志倭人伝、古事記、日本書紀の記述に基づき、天皇家とどのような関係があるのかを解説します。

先祖

天皇家の系譜を辿ると、天照大御神にたどり着きます。天照大御神は神々の頂点に立つ権力者であり、夫はおらず、天照大御神の言葉を伝えるために出入りしている高木神という神がいること、さらに天照大御神は、神々が住む高天原という国を統治していることなど、卑弥呼と酷似する特徴がいくつか見られます。 このことから、卑弥呼は天照大御神ではないかという説が浮上しています。卑弥呼が天照大御神ならば、卑弥呼は天皇家の先祖ということになります。

子孫

卑弥呼は神功皇后という説もあります。神功皇后は、第14代天皇である仲哀天皇の皇后で、日本書紀では「気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」、古事記では「息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)」と表記されています。父は第9第天皇である開化天皇の玄孫・息長宿禰王なので、卑弥呼が神功皇后という説が成立するのならば、卑弥呼は天皇の子孫に当たると言えます。 神功皇后は、日本書紀に魏に使者を送ったという記述がされており、卑弥呼のエピソードと酷似している点があります。さらに、魏志倭人伝には邪馬台国の勢力は九州まで及んでいると記述されていますが、日本書紀にも筑紫(現在の福岡県筑紫市を含む地域)が天皇家の支配下にあったことが記されていることから、江戸時代頃までは卑弥呼は神功皇后であったと広く信じられていました。 酷似する点がある一方、卑弥呼の死後邪馬台国の女王となった宗女・壱与に当たる人物が日本書紀には記載がない点など、魏志倭人伝と日本書紀と噛み合わない部分も多く、信憑性が疑われる部分も多いです。

親戚

近年卑弥呼は「倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)」ではないかという説が出てきています。倭迹々日百襲姫は、第7代天皇孝霊天皇の皇女です。日本書紀によると、倭迹々日百襲姫は、奈良県にある三輪山の神との神婚したという伝説や、第8代天皇崇神天皇に神の神意を伝える巫女的な役割を担っていたという記述が残されており、卑弥呼と酷似する部分が見られます。 さらに、倭迹々日百襲姫の墓と伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の有力地と言われる纒向遺跡の中にあり、同時期に作られた古墳の中では非常に大きな規模の古墳です。加えて、魏志倭人伝に記述されている卑弥呼の墓の多きさとほぼ一致するため、倭迹々日百襲姫が卑弥呼であるという説が有力視されている一因となっています。 しかし、倭迹々日百襲姫は皇族であっても、女王と称されるほどの権力を持っていたとは考えにくく、日本書紀と魏志倭人伝の記述に矛盾点があることも指摘されています。箸墓古墳は宮内庁により陵墓として指定されているため、立ち入り調査ができず詳細な調査ができないため、真相は謎のままです。

卑弥呼の時代の天皇は誰か

古事記・日本書紀の記述から考察すると、卑弥呼の時代の天皇は第10代天皇崇神天皇(すじんてんのう)であると言われています。初代天皇である神武天皇から第9代開化天皇までは実在が疑問視されていますが、崇神天皇は実際に存在していた天皇と考えられています。 崇神天皇は初めて国を治めた天皇という意味を持つ「御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とも呼ばれ、崇神天皇が事実上初代天皇ではないかという見解もあります。 崇神天皇は、疫病が流行した時には疫病を鎮めるために、宮中に祀られていた天照大御神と倭大国魂神を皇居の外に移して祀ったり、四道将軍を地方に遣わせて勢力下に置いたり、戸口を調査して課税を科して公共事業を行ったりと、日本文化の発展に大きな貢献をした天皇と記述されています。

卑弥呼と崇神天皇の関係

古事記の記述から考察すると、崇神天皇の没年は258年だと言われています。崇神天皇が258年に没したという説が成立する場合、崇神天皇の治世は邪馬台国の後半時期と重なります。このことから、邪馬台国はヤマト王権の前身であったことを示し、崇神天皇は卑弥呼の側近や卑弥呼の弟、卑弥呼の宗女・壱与の摂州など、何らかの形で邪馬台国の政治に関わっていた人物であると言えます。 卑弥呼が倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめ)という説が成立する場合は、卑弥呼と崇神天皇は親戚関係であったと言えます。しかし、卑弥呼が倭迹々日百襲姫という説は、文献による記述に矛盾点があることと、倭迹々日百襲姫の墓といわれる箸墓古墳の立ち入り調査ができないこともあり、推測の域を超えることができず疑問視される声も多いです。

多くの謎が残る邪馬台国の女王卑弥呼

今回は、卑弥呼や邪馬台国にまつわるさまざまな謎についてご紹介しました。いかがでしたでしょうか。 卑弥呼や邪馬台国に関する謎は、解明されていない部分が多く、現在も学者や研究者の間で多くの議論が交わされています。しかし、近年の考古学の発展は目覚しいものがあり、新しい事実が次々と明らかになっています。いずれ卑弥呼や邪馬台国の真実の姿が判明し、卑弥呼と天皇家の関係など、さまざまな事実が明らかになるでしょう。

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