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プロテスタントとカトリックの違いとその歴史・国別の割合

更新日:2024年03月10日

社会人常識

世界の大多数の人々が信仰するキリスト教には、カトリックとプロテスタントの二つの宗派が存在します。仏教が主な宗教である日本では、あまり馴染みが無く違いがよくわからない人も多いでしょう。今回は、そんなカトリックとプロテスタントの違いについてご紹介します。

プロテスタントとカトリックの違い

プロテスタントとカトリックの違いは、簡潔に述べるならば権威の在り処にあります。二つの宗派は神の存在を第一に置くことは同じですが、プロテスタントは聖書を、カトリックは教会の存在を第二の権力としています。 カトリックには聖書の他にも様々な決まりやルールがあり、教会が神の言葉を取り次ぐことから神の次に権威があり、聖書はその次にという考えがあります。プロテスタントは教会の権威は認めつつも、聖書は神の言葉なので神の次に権威があるのは聖書であり、聖書の言葉に従うべきであるという考え方があります。

ミサと礼拝

ミサとは、カトリックで行われる礼拝の儀式です。日曜日やキリスト教の祝日だけでなく原則平日にも行います。ミサでは聖書の朗読と司祭の説教、聖体拝領を行います。ミサのメインは聖体拝領です。聖体拝領とは、キリストの体となったといわれるパンと葡萄酒を食べることを指します。 この儀式は、キリストの最後の晩餐を模したもので、ミサの中で食べたパンと葡萄酒はキリストの体と血に変化すると考えられています。この儀式を行うことでキリストや教会の共同体と一体になるという意味があります。 礼拝とはプロテスタントの礼拝儀式を指します。礼拝は主に毎週日曜日に行われます。プロテスタントは信仰は聖書のみなので、キリストとは聖書の言葉を中心として交わります。そのため、聖書朗読に関する司祭の説教は、カトリックのミサよりも多く時間を取ります。 また、プロテスタントの礼拝には聖餐式というカトリックの聖体拝領と似た儀式がありますが、プロテスタントの多くの宗派では、パンと葡萄酒は象徴という意味しかないので必ずしなければいけないものではありません。

お祈り

カトリックとプロテスタントは、お祈りの仕方にも違いがあります。お祈りの後に十字を切るのがカトリックで、プロテスタントはお祈りの後に十字は切りません。また、洗礼名と言うシステムはカトリックだけでプロテスタントにはありません。 プロテスタントは、偶像崇拝をしないのも違いの一つです。カトリックの十字架には、イエスキリストの像が付いていますが、プロテスタントは偶像崇拝をしないため十字架に像は付いていません。他にも、司祭はカトリックでは神父と呼ぶのに対して、プロテスタントは牧師と呼びます。 神父は男性のみがなれるもので、生涯独身が良いとされています。牧師は女性でもなることができて結婚することもできます。カトリックは聖書の解釈の仕方も細かく決められていますが、プロテスタントは信者がそれぞれの解釈を自由に持っています。

正教会

正教会は、カトリックとプロテスタントとは違うもう一つの宗派で、ギリシャや東洋の要素を取り入れたものです。成り立ちは11世紀頃のローマ帝国の東西分割がきっかけで、東方教会と西方教会に分かれたこととされています。この時の東方教会が正教会で、西方教会がローマ・カトリックです。 正教会はロシアやルーマニア、日本にも分布しており統一した組織はありません。ただし、正教会同士は対等なので、もめ事が起きないようにトルコのコンスタンティノープル総主教座とロシアのモスクワ総主教座がまとめ役になっています。 正教会の特徴は、聖書だけでなく正教会が認めた聖伝を拠り所としていて、古代キリスト教の教えをそのまま伝えることです。また、イコンという聖画像が特徴的です。イコンとは天使やキリストといった教会史のなかであった出来事を絵にしたものです。イコンそのものは信仰対象ではなく、あくまで描かれた原像に信仰を捧げます。

プロテスタントとカトリックの歴史

16世紀の宗教改革のきっかけ

プロテスタントとカトリックの歴史は、16世紀の宗教改革から始まります。当時ドイツでは、カトリックのサン=ピエトロ大聖堂の建築費のため、教皇の許可を得て免罪符の販売が行われていました。免罪符は、購入すれば犯した罪が許されるという教会の証明書です。 「お金さえ払えば罪が許されて良いのだろうか?」と、この制度に異を唱えたのが、ドイツの学者であるマルティン・ルターです。ルターは免罪符での救済に根拠は無く、罪は信者の信仰によってのみ救われると主張しました。この主張が人々の間で反響を呼びます。

プロテスタントの成り立ち

上記のことでルターは、教会で告発され破門されてしまいます。しかし、ルターは自分の主張を綴った本を発行し、聖書のドイツ語訳などを行います。それまで聖書は、ラテン語でのみ書かれており、聖職者がそれを信者に伝えていたため、信者の大半が聖書を読むことができませんでした。 つまり、聖書を読めることが聖職者の権力の源でもありました。しかし、ルターが聖書をドイツ語訳し信者が自分で聖書を読めるようになったことで、その権力が脅かされることになります。 これをきっかけにルターの主張が人々に広まり、宗教改革がはじまります。そして、どんどん増えるルター派に権力を脅かされること恐れたドイツのカール5世は、1529年にルター派を禁止します。しかしルター派の諸侯たちはこれに反発し、ルター派はプロテスタント(抗議者)と呼ばれるようになります。 さらにドイツは、当時フランスやローマ教皇、トルコからの圧力にもさらされており国の内部で争っている場合ではなくなります。そして、1555年アウグスブルグ宗教和議が結ばれ、プロテスタントは認められます。また、ドイツ諸侯はカトリック派かプロテスタント派か選べるようになりました。

30年戦争

30年戦争とは1618年に始まった宗教戦争のことを指します。この戦争は、1618年のベーメンの反乱がきっかけで起こります。ベーメンの反乱は、カトリック教徒であるベーメン国王のフェルディナンドがカトリック以外の教徒、主にプロテスタントの教徒に改宗を強要したことが原因で始まります。 プロテスタントの新教徒は、これに反発を抱き反乱を起こしますが、フェルディナンドはスペインの支援もあり、1619年に神聖ローマ帝国を建国し皇帝になります。そして新教徒は、1623年に鎮圧されてしまいました。 ここで戦争が終結するはずでしたが、領土拡大を狙うデンマークが、新教徒を救う名目で参戦します。神聖ローマ帝国は有利な戦況にありましたが、さらにプロテスタント側にスウェーデンも参戦し戦いは激化します。そしてそこに、カトリックの国であるフランスがプロテスタント側に参戦することになりますが、この頃には宗教は関係無く各国のヨーロッパを巻き込んだ乱戦状態になっていました。 そして1648年に戦争は終わり、ウェストファリア条約が結ばれます。条約により、フランスとスウェーデンは領土を拡大し、オランダとスイスは独立を果たします。神聖ローマ帝国は滅んでしまいました。

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初回公開日:2017年09月05日

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